今回は、山田詠美さん著『姫君』という作品について語ります。
登場する人物のだれに深く共感するわけでもないのに、事あるごとに手に取ってしまう小説というのがあります。
『姫君』は私にとって、そういう作品のひとつです。
主人公は、ホームレスの女性、姫子。
ド生意気で高飛車な性格の彼女は、食べ物を求めて食堂街をひとりうろついていたところを、定食屋に勤める男、摩周にひろわれる。
摩周のアパートに居候する日々。姫子は悠々自適にふるまう。
支配する女。支配される男。
支配することで支配されているという、ゆるぎない事実。
自分はほんとうに支配しているのか。自分はほんとうに支配されているのか。
たとえば官能小説のような、直接的かつ濃厚な描写があるわけではありません。
描かれているのはあくまで、精神面のこと。
それでも、これほど官能的なお話を、私は他に知りません。
だれかを支配する。
だれかに支配される。
支配することにも、支配されることにも、同等の責任がつきまとう。
世の中には、相手を自分の思うまま支配したいという人間と、相手の思うように支配されたいという人間の、両方が存在します。
支配したい欲、支配されたい欲、そのふたつが合致したとき、人は初めて、自分の抱く欲望の真髄に気づくのかもしれませんね。
「申し訳ないなあ」
それが嫌なんだ。申し訳ないと思う時、人は、いつも上になっている。
こんな男にそうされてる。それなのに、心地良い。屈辱は、快楽で相殺されている。
(本文一部引用)
その場その場の上下関係ってありますよね。
年齢とか立場とかそういうものとはまた違う、瞬間的に生まれるもの。
何においても ”縛られること”をもっとも嫌う姫子は、当然、摩周に対しても、生来の勝気さ高飛車さを全開にやりたい放題。
それをすべて、鷹揚に受け止める摩周。
実は、支配されているのはわたくしのなのかもしれない、とふと思う。
彼は、いつもわたくしの機嫌に寄り添い、わたくしの内から命令じみたものを引き出そうとする。
それが口をついて出る時、わたくしは、この男のことしか考えていないのだ。
(本文引用)
うーん、と、思わずうなってしまう。
人と人との関係性のかたちなんて、それこそ人の数だけありますよね
支配されるのに慣れっこになっている人というのは、実のところ誰よりも、支配するのが上手いのかもしれない。
私は、自分と同世代や、もしくは年下の人よりは、年上の人と付き合うほうがなんとなく楽だなと感じます。
それはきっと、自分が年下であるということを盾に、相手に対していつでも下の立場で構えていられるから。
追従する姿勢を自ら取っていれば、どんなことがあろうと、相手側から何かを強制されたような気分になることは絶対にありません。
なぜならそれは100パーセント、自分で選んだことですから。
ましてや姫子のように、大きくなり過ぎた相手の存在を御しきれなくなっている自分にふと気づいて、途方に暮れることもないのです。
支配されたくないから、支配されるのを自分で選ぶ。
矛盾しているようだけど、きっとそれがいちばん楽な道。
そう思うのだけれど、一方で私は、作中の摩周のこんな台詞になぜかものすごく憧れを抱いてしまいました。
「石、投げたいのなら、おれに投げればいいでしょう? 怒りなら、おれにぶつければいいでしょう?」
(本文引用)
こんなふうに言われてみたい、と、ちょっとだけ思ってしまう。
こんなことを言う相手に、自分の意思とは違うかたちで”支配”されてしまったら。
それはきっとものすごく苦しいことだろうけれど、それでもやっぱり、憧れます。
もしかしたら誰かに惚れるということは、その時点で支配されてしまっているのと同じことなのかもしれませんね。
『姫君』は、単なる恋愛小説ではありません。
ひとりの人のなかに静かに眠る暴力的な欲望を、レンアイという概念を通して、新たに見つめ直したお話と言えます。
新たな関係性を模索したい方におすすめの一品。
収録作品は「姫君」ほか「MEMU」、「フィエスタ」、「シャンプー」の3編。
山田詠美さんの文章には言葉あそびのような独特のリズムがあって大好きです。
それでは、今日はこのへんで。