どうも、いとのです。
今回は、池澤夏樹さん著『きみのためのバラ』という短編集をご紹介します。
以前、NHKあさイチの特集で紹介されたことでも有名な本ですね。
読むだけで、ここではないどこか遠くまで連れていってくれる物語というのがあります。
それは、単にものがたりの舞台が遠い海外であるからというだけではありません。
こんな想いがあるのか。
こんな世界があるのか。
こんな生き方があるのか。
こんな人生があるのか。
こんな人生もあるのだ。
心の底から、そんなふうに思わせてくれる。
自分が棲む世界が、ぐんぐんと音もなく広がってゆくような爽快感。
そういう力をそなえた物語。
ひとの生き方というのは、本来、生きているひとの数だけあって良いはずです。
それは当たり前のことなのに、多くの人はせわしない日々のなかで、そのことをすっかり忘れてしまう。
普通はこうであるべきだ。こうするべきだ。こうでなくてはならない。
ことに世間体、協調性というものを重んじる性質が強い日本人には、そうした強迫観念が深く深く根付いているように思います。
人と違うというのは、なにより悪いことである。
そう、思いこんでいる人が、とても多いように思います。
まあ、無理もありませんね。
保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、子ども時代を過ごす教育機関のほとんどで、私たちは皆、そんなふうに教え込まれてきたのですから。
もちろん、協調性は、生きて行く上でとても大切なものです。
けれど、それだけに固く縛られる必要性など、どこにもない。
自分は自分という人間であり、その他の誰でもない。
この短編集『きみのためのバラ』には、そういう胸のすくようなすっきりした考え方をそのまままとめて形にしたような、優しいお話が詰まっています。
収録作品感想
「都市生活」
語り手は、予約ミスで飛行機に乗りそびれてしまった男性。
チェックインカウンターで、ホテルの受付で、飲食店で、どこへ行っても、対応するのはマニュアルに沿ってしか行動しない、杓子定規な係員たちだけ。
そうだ、今、俺は会話が欲しいのだと気づいた。
係や担当者やレセプションやウエイトレスを相手のマニュアル的なやり取りだけではない本物の会話…(本文より)
そんな折、彼はレストランでひとり食事をしていた女性とたまたま目が合い、声をかける。
彼女は「母親に金を持ち逃げされた」と、初対面の彼に打ち明ける。
この、「言葉を交わしているのに誰とも”会話”はしていない」感じが、ひりひりしていて、とてもリアルで。
いかにも「現代っぽい」お話でした。
「レギャンの花嫁」
舞台はバリ。温かく、自由で、開放的な空気。若い異国人にやさしい街。
結婚が決まり、幸せの絶頂にいた女性が、前触れなく唐突に、未来の夫の急死を知らされる。
人が死ぬというのはあることです。若くて元気で魅力いっぱいの婚約者がいきなり死んでしまうというのだって時にはあることです。でも残った人は生きて行かなくてはならない。わたしたちは今日と明日と明後日を生きるしかないのです。(本文より)
ラストの一文「バリはまた新しい朝を迎えます。」が、ひどく現実的であり残酷でもあります。
ああ、これが人生なんだよな…と。
誰かが急にしんでも、周囲の人間には皆、「これから」がある。
いろいろな問題があふれていて、いつ誰が急に亡くなってもすこしもおかしくない時代です。身につまされる思いで読みました。
「連夜」
舞台は沖縄。女医さんとアルバイトの青年の、十日間の逢瀬のお話。
突然始まって、そして唐突に終わる、肉体だけの関係性。
どうしてそういうことになったのか。
私たちのあの欲望は本当に自分たちの中から出てきたものだったのか。私たち、誰かに使われたんじゃないだろうか。私たちは誰かの道具だったんじゃないだろうか。(本文より)
ちょっと不思議なお話。
人によってはオカルトというかもしれないけれど、私はこういうのすごく好きです。
私にはべつに霊感もないし、スピリチュアルな経験も特に無いけれど、世の中、科学的に説明のつかないことなんていくらでもあると思う。
作中の「琉歌全集」の歌が素敵でした。
「レシタションのはじまり」
寓話的な一編。
レシタションとは、マントラ、真言などとも呼ばれる「お唱え」のこと。
世界に広まる前は、少数の民族のあいだだけで「ンクレレ」と称されていた。
罪を抱えた男が身を隠したのは、「ンクレレ」を有する人々のもとであった。
彼らは決して争わない。争いが起きると、誰かが争う人々の耳に「ンクレレ」をささやく。すると必ず、その人の激昂はおさまる。
「ンクレレ」には、人の執着心、しがみつく思いを薄れさせ、昂った心をしずめる、ふしぎな効力があるのだーー。
作中に「ンクレレ」なるものの詳細は一文字も出ていないのに、なぜだか妙な説得力があるお話です。
自分が何かくやしい思いをしたときや、誰かを憎らしく思うとき、よくこのお話を思い出します。
ンクレレ。私も知りたい。
「ヘルシンキ」
降り積る雪。日照時間は短いので暗い。
空気中にぎしぎしひしめき合うような寒さ。
語り手の男は、滞在中のホテルで一組の親子に出会う。
話すうちに、その父親はロシア人の妻と別れていて、娘とは年に数度しか会わないことがわかる。
その父いわく、結婚当初、娘は日本で日本語で育てることにしたものの、妻が子とふたりきりのときに、” 母親として心をこめて赤ん坊に話しかける言葉” はロシア語であった、と。
「国際結婚は大変ですよ」
「すべての結婚は国際結婚だと言った人がいる」。
言葉の齟齬。
誰かとともにいながらわかりあえない哀しさが、1ページ1ページから静かにただよってくるようなお話です。
異国の森で孤独な木になれたならと、語り手の男は夢想します。
私は木だ。林の中の一本の木。
木である私はずっと昔の記憶しか持たず、ただそこに立って夏の美しい光と冬の弱い光を浴び、雨と雪と風を享け、一日単位の深呼吸をしている。
木々は並び立っていつまでも生きしかも言葉を必要としない、と私は考えた。(本文より)
言葉を必要としない、悠々とした自然の一部になれたらと希う気持ちは、よくわかる。けれど人である以上、人とともに生きていく以上、言葉を放棄することは、絶対にできないのですよね。
「人生の広場」
ふたりの男の対話。
「人生に曲がり角のような時があるときみは考えるか?」
「一度立ち止まって次の方位を決めなければならない場所にさしかかる。それはつまり人生の広場なんだ」
男は”人生の広場”をパリで過ごした。
私はパリでは観察者に徹していた。パリの半年は私の人生にとってカウントされない時間で、その間に私はひたすら人間を観察した。その分だけ人間を知るようになった。広場は十分に役に立ったよ、私にとって。(本文より)
「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」
舞台はカナダ。語り手は、家庭的に問題を抱える日本人の少年。
彼は中学生の時、親の前では英語しか口にできなくなった。
家の中でも言いたいことが親に言えない。
学校で英語を習いはじめてしばらくした頃、こっちを使えばいいんだと思った。
自分の中で何が起こったのか知らないけれど、その時から英語が出てこなくなった。本当にどうやっても駄目なんだ。(本文より)
「きみのためのバラ」
表題作の舞台はフランス。
語り手の男は、妻とともに列車に乗っている。
不審な置き去り荷物を見つけた妻は即座に席を立ち、夫を促し、混んだ車内を人をかきわけて進む。
夫の脳裏には、若い頃に同じように人をかきわけて進んだ記憶が、ふいによみがえってくる。
それはメキシコの列車だった。美しい少女に出会い、ふと思い立って、停車駅で買った一輪の黄色いバラを、彼女に贈りにいったのだった。もう今後二度と逢うことのないであろう少女に。
「きみのためのバラ」と言って、黄色いバラを彼女に差し出した。
じっと顔を見て、これから百年でも忘れないという気持ちで彼女の顔を見て、「アスタ・エルゴ またね」と小さな声で言って背を向け、ここまで辿って来た困難な道を戻りはじめた。(本文より)
とてもささやかで、やさしい物語。
二度と会えなくても、いつまでも記憶に残ってふとしたときに思い出す相手というのは、きっと誰にもひとりくらいはいるはずです。
そういう相手のことを、思い出させてくれるお話。
私も、過去に関わった誰かに、そんなふうに思い出してもらえることがあるのでしょうか。
おわりに
収録された8つの物語の舞台ーー日本都市部、バリ、沖縄、ブラジル、ヘルシンキ、パリ、カナダ、アメリカ。
このすべてを、私はまだ一度も訪れたことがありません。
それでも、読んでいると時おり、なんともいえず懐かしさのようなものを感じる瞬間というのがあるのです。
人と人とが関わるには、どうしても言語が必要となる。
けれど、どうしても言葉であらわすことのできないものが、私たちのなかには静かに存在しているのだと思います。言葉にはできないけれど、とても大切なもの。
この短編集には読む人に、そういう事柄の存在をそっと思い出させてくれます。
過去のささやかな瞬間まで旅させてくれる物語が手元にあるというのは、とてもたのしく、また心強いこと。
皆さまもぜひ、一度お手に取ってみてはいかがでしょうか。
それでは、今日はこのへんで。