奇才と呼ばれる乙一さんのデビュー作「夏と花火と私の死体」は、一応はホラー小説にカテゴライズされるものの、なぜか定期的に読みたくなるような懐かしさと安定の面白さを秘めている作品だと思います。
この子をどこに隠そうかーー。
「本当に怖いのは誰?」というキャッチコピーがぴったりの名作です。
※この記事は軽いネタバレを含みますので未読の方はご注意ください。
『夏と花火と私の死体』内容とあらすじ
九歳の夏休み「わたし」は友達である弥生ちゃんにあっけなく殺される。弥生ちゃんは自分が殺したことを隠し、兄の健くんに相談する。そこで健くんは「わたし」を隠してその時頻発していた誘拐事件に偽装することを提案する。
大人たちの追及から逃れながら死体を隠そうとする幼い兄妹を、死体の「わたし」の視点で書いたホラー小説。
見どころポイントは「死体目線」
何らかの犯罪を幼い子供たちの視点から描いた作品というのは意外と多いように思いますが、さらにそれが「死体となった子供」のものであるとなると、かなり印象が変わってきます。
踏み台にしていた大きな石の上に背中から落ちて、わたしは死んだ。
物語の序盤で「死ぬ」、主人公のわたし。
殺したのは、友達の弥生ちゃんです。
「わたし」の遺体を大人たちの目から何とか隠そうとする弥生ちゃんとその兄の奮闘ぶりを、「死体」であるわたしの目線から描く形で、物語はあくまで淡々と進んでいきます。
本当に怖いのは誰なのか?純粋無垢な子供たちの恐ろしさ
本書の一番の恐ろしさは、主人公の「わたし」を殺した弥生ちゃん、そして弥生ちゃんに協力するお兄ちゃん2人が、1ミリの迷いも逡巡もなくあっさりと自己保身に走っているところだと思います。
例えば一般的なミステリー小説では「なぜその殺人が起きたのか」という動機やそれに至るまでの加害者と被害者の心情の部分に焦点を置かれていることがほとんどです。
あるいはホラー小説であれば、さらに加害者の恨みつらみの部分を深堀していくパターンも多いでしょう。
しかしながら『夏と花火と私の死体』作中では、被害者側の悲しみや無念も、また加害者側の後悔や懺悔の念なども一切描かれていません。そしてそれを読者に疑問視させないくらいにさりげなく、物語は進んでいきます。
「殺されちゃった」から、自分の身体はどうなるのだろうと心配する。
「うっかり」殺してしまって、大人にバレたらヤバいから、どんな手を使ってでも「隠ぺい」しようとする。
作中には残酷さを残酷さとしてまっすぐ描かない、あくまで俯瞰したような表現が多く、個人的にはなんだかちょっと「グリム童話」っぽいなあと思いました。
グリム童話も多くは子供向けとして表現を和らげる方向に改変されているけれど、改変前は、心霊ではなくあくまで生身の人間の恐ろしさを追求したものがほとんどです。
でもその読者を子供扱いしていない、真髄をついた雰囲気があるからこそ受け入れられ、広く普及したと言えるのではないでしょうか。
そして極めつけなのは、後半に登場する「緑さん」の存在です。
筆者は彼女の抱える闇を、ラストにあくまでちょっと童話風に演出しています。
緑さんの性癖や感性もまた、作中で際立つ「気持ち悪さ」の1つであることはたしかですが、それ以上に怖いのは、読んでいるうちにその気持ち悪さが徐々に「当たり前」に感じられてしまうようなストーリー展開そのものなのかもしれません。
この世で一番怖いのは人間であるとよく言いますが、その怖さをあえて「子供たち」にスポットをあてた上で、のどかな田園風景の中で童話チックに描き出しているところが、本書が名作である最大の理由ではないかと思います。
加えて、収録作品『優子』も良かったです。
白い顔の人形たちに囲まれて、小さな村の閉鎖空間で唐突に起きる悲劇。淡々とした展開にラストのオチ、そしてどこかのどかな語り口。
良い意味での違和感、異物感がアリアリで、これぞ乙一ワールド!という感じが最高でした。
あの世界観、ぜひとも漫画化してほしい。できれば楳図かずおさんテイストで。
それでは、今日はこのへんで。