疲れたときほど本を読みましょう

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川端康成『雪国』感想 「君はいい女だよ」の意味とは?泣くほど怒った駒子を考える

最近、『雪国』を読み返しました。
昔は何気なく読みとばしていたような箇所が、何年かを経て読むと全然違って見えてくることがありますね。

駒子は、いったいどんな想いで島村と過ごしていたんだろうか。

 

 

 

 

「君はいい女だよ」と言われ、泣いて怒った駒子

君はいい女だね
「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」

島村は驚いて駒子を見た。

「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね」

 

「いい女だね」と言われた駒子は、島村を睨みつけて「どういう意味だ」と詰問する。やがて「くやしい、ああ、くやしい」と言いながら、涙をぼろぼろと流す。



ずっと昔、まだ子供のころに読んだときは、この部分の意味合いがまるでわからなかった。

いい女だ」と言われた駒子は、いったい何を思ったのか。
なぜ、島村の言葉に対し、涙を流すほど悔しがらなければならなかったか。


この展開に至るまでの島村の心情に、駒子のことを否定するような描写はひとつもない。
島村はむしろ、駒子の内面を全面的に「肯定」している。

女として、というよりは、あくまでひとりの人として、肯定している。
表面的な世辞ではなく本気で、心の底から「いい女だ」と思っている

一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。

 

「いい女だ」と思い、それをそのまま言葉にした島村。

どうひいき目にみても、やはりここは彼のほうに非があったと私は思う。

東京に妻子があり、年に一度思い出したように通ってくるような男が、芸者として心身を削って生き抜いている女にそんな台詞を言うことの意味を、なぜ微塵も想像できなかったのか。


もっとも、島村に悪気があったわけではない。
ある意味では、それが余計に悪かったのかもしれない。

もし逆に「いい女だ」という台詞が皮肉とかあてこすりみたいなものだったなら、駒子はおそらく、ここまで傷つくことはなかったのではないかと思う。

 

島村は後を追うことができなかった。
駒子に言われてみれば、十分に心やましいものがあった。

 

… 口に出す前にそこに思い当たることができないのが、やはり島村の放蕩者たる所以なのじゃないだろうか。

 

「いい女」の意味とは?

ちなみにこの「いい女」の解釈も、人によってさまざまだったりする。

大きく分けると、単に「都合のいい女」という読み方をするか、あるいは性的に「いい女」であるという解釈をするか、この二つだろう。


もちろん著者が正解を明言しているわけでもないし、そもそもこういうことに明確な正解というのもないわけだけど、私は、後者の解釈をする人はどちらかというと男性に多いのではないかと思っている。

 

少なくとも駒子の心情を考えれば、女の立場に立てば、前者のような解釈を直接口頭で伝えられればそれはもう明らかに「キツい」し、腹が立つし、泣くほど傷ついて怒るのも無理はないだろうと思うので。


それに駒子は芸者なのだから、「性的に」見られるということに少なくとも普通の女性よりは慣れているはずだ。
すでに深い仲になっている島村に対して、そのことで今さら「泣くほど」傷つく…という解釈には、個人的には少々違和感がある。


ただ『雪国』という作品全体を見れば、後者の解釈をするのも自然だ。


明確な描写こそ少ないものの、島村と駒子の肉体関係は作品のあらゆる部分で「ほのめかされて」いる。
あの気品ある文章の合間合間からは濃厚な色香がまさしく立ち上ってくるようで、そこがまた『雪国』の最大の魅力でもある。

 

しかしそれは実は、読者に「いい女」を性的なものだとあえて解釈させるための、壮大な「スリード」のようなものなのではないのだろうか。

 

これは、あるいは多少強引な解釈かもしれない。
しかし個人的には、そんなふうに思えてならない。

 

 

著者 川端康成は「ヤングケアラー」だった

『雪国』は、言わずと知れた名作です。しかしながら、その名作を生みだした川端康成ご本人については私、お恥ずかしいことに最近まであまり知らなかったんですよね。


むしろ『雪国』の印象が強すぎたせいか、雪国の島村を川端康成と同一視しているところもあったくらいで、要は「文学」,「道楽」によほど長けた男性だったんだろうな…くらいの認識でした。

 

しかし実際のところ、川端康成は幼少時からかなりの苦労をしてきています。
両親とは幼い頃に死に別れ、子供のころから祖父の介護をしながら生活をしていて、いわゆる現代で言う「ヤングケアラー」だった、のだとか。


このあたりの情報を細かくみていくと、川端康成本人はむしろ島村より駒子に近い性質だったのではないか…とさえ思うのです。


まあ著者の生い立ちや経歴をそのまま著作と結びつけるのはあまり良いこととは言えませんし、著者にも作品にも失礼だというのも分かってはいるのですけどね。

ただ、こういう生い立ちの人が島村という存在を描き出し、その対極に駒子や葉子の存在をも生み出したのかと思うと、やっぱりちょっと驚きました。

 

いろいろ付加情報ありきで本書を読み直してみたら、なんだかちょっと違うものが見えてきたような気がして新鮮で面白かったです。


…あと、こういう話を真逆の季節に読むのも案外楽しいものですね。笑

 

 

 

 

それでは今日はこのへんで。