群像新人文学賞、芥川賞のW受賞を果たした本書は、村上龍のデビュー作でもあります。
『限りなく透明に近いブルー』ーー何とも綺麗な響きのあるタイトルですが、描かれているのはきわめて退廃的な生活を送る若者たちの虚無と絶望です。
ちなみに初期のタイトルは『クリトリスにバターを』だったということですが、あまりに直接的な表現だということで改題されたそう。
当作品の主題は絶望なのか、それともその陰にある希望なのか…
私には未だによくわかりません。
今回は、何度も読み返した上での自分なりの解釈を書いてみようと思います。
『限りなく透明に近いブルー』かんたんあらすじ
・舞台は東京の米軍住宅。
主人公リュウは恋人リリーや仲間たちとともに荒れきった生活を送っている。
麻薬や暴行、乱交パーティーなどに明け暮れる日々。
・リュウは脳内で「架空の都市」を空想する癖がある。
そこは鮮やかな色彩にあふれていて、作中の表現を借りると「世界中の全てのものがある」。
現実の荒れた生活とはまるで正反対の、すべてに恵まれた理想の世界。
・すさんだ生活が続く中で、やがて仲間うちの争いやトラブルが絶えなくなる。
つるんでいた仲間たちもいつしかリュウの周りから離れていく。
・リュウは自らが作り上げた妄想都市の存在に、以前にもまして入れ込むようになる。やがて謎の幻覚「巨大な鳥」に精神を支配され、錯乱する。
・ラスト、リュウはポケットから細かく砕けたガラスの破片を取り出す。
「限りなく透明に近いブルーだ」。
リュウはそう感じ、自分もこのガラスみたいになりたい、と心の内で願うのだった。
退廃的な生活を送る若者たちの姿
上述した通り、作中に登場する若者たちはとにかく「荒れた」生活を送っています。
この作品が執筆されたのは、高度経済成長期のすぐ後のこと。
ちょうど人々の生活水準が上がりはじめた頃なのに…とも思いますが、経済の豊かさと若者の心の健康は決してイコールではないということを暗に示しているのかもしれませんね。
何にしても、平成生まれでゆとり世代真っ只中ののんきな環境で育ってきた私にとってはなかなか衝撃的な部分もありました。
それでもなんだかんだで最後までひきつけられてしまった理由はやはり、主人公リュウの内面の「創造性」です。
脳内に架空の都市を作り出していた主人公リュウ
現実にはありもしない都市を脳内に作り出していたリュウは、いったい何を求めていたのでしょうか。
もしリュウが心身ともに健康的な若者だったなら、単なる「妄想癖」だと片づけることもできますが、作中でどこまでも精彩に描写された「退廃した」暮らしぶりを考えれば、これは紛れもなくリュウの「逃避願望」のあらわれであると思われます。
「自分で自分の遊園地を持ってて好きな時におとぎの国に行って、スイッチ入れて人形が動くのを見るようなものさ」
「その都市に住んでいる一人一人の顔つきや血液型まで決めたよ」
作中における「妄想都市」の描写自体があまりに細かく鮮明で圧倒されます。
たとえば『赤毛のアン』の主人公アンが描く空想の世界も同じようにリアルで事細かなものですが、アンの空想はあくまで健康的な感じで、からっと明るい雰囲気がありますよね。(児童文学を引き合いに出すのはちょっと違うのかもしれませんが…)
一方で、本書の主人公リュウの描く「架空都市」にはやはりどこか病的な気配があるように私には思えます。
巨大な「鳥」は何を揶揄している?
「リリー、あれが鳥さ、よく見ろよ、あれは鳥さ、わからないのか?本当にわからないのか?」
作中でたびたびリュウを圧倒し、抑圧する「幻の鳥」。
これはいったい何を示しているのでしょうか。
当作はあくまで「純文学」のカテゴリーに入るため、「幻の鳥」はあくまでリュウの精神状態の乱れや錯乱をきわめて「文学的に」表現した抽象的な存在であるという説もあります。
あるいはリュウがもっと「一般的な」、いわゆる普通の社会生活を営んでいる若者であれば、これは単に若者に特有の憂鬱、鬱屈のあらわれであると結論づけることもできたかもしれませんね。
しかし個人的には、本作においてはおそらくそれ以上に重いテーマ、深刻な主題の隠喩・揶揄であるような気がしています。
たとえば、リュウを含む仲間たちは皆、米軍の存在を日常的に身近に感じる環境に身を置いて生活しています。
物理的に直接支配を受けているという状況でなくても、やはり普通の街中とは違い、間接的に「抑圧」を感じるような空気があるのではないかと思います。
リュウのように細やかな精神世界の持ち主ならなおさらです。
しかしたとえそうであっても、誰もわざわざ口には出さない。
暗黙の了解のようなものが常にあって、それがなおさら「鬱屈」に拍車をかける。
リュウにはそれが耐えられない。
その心情が、上記の「あれは鳥さ。わからないのか、本当にわからないのか?」の台詞にあらわされているのではないかと私は思います。
著者 村上龍が描こうとしたものは?
「限りなく透明に近いブルー」と検索すると、わりと高い確率で関連ワードに「気持ち悪い」が出てきます。
さすがにそこまで露骨な表現でなくても、ネット上の感想などを見ると「何が言いたいのかわからない」「描写があからさまで気分が悪かった」などという言葉も目立ちます。
たしかに、作中には虫の死骸やその体液など、はっきり「気持ち悪い」ものの描写もかなり多いです。
そういう情景描写は、やはり何らかの意図があってのものでなくては成立しません。
では、どのような意図が隠されているのか?
それがまさに『限りなく透明に近いブルー』というタイトルに集約されているのではないでしょうか。
物語のラストで、血のついたガラスを見ながら「このガラスみたいになりたい」と願ったリュウは、作中でおそらく初めて、前向きかつ建設的な思考回路をもちます。
嫌なもの、汚いもの、陰鬱なもの… あらゆる「負の」描写の羅列が冒頭からずっと続いてきた中、ラストで初めて「綺麗なもの」「綺麗な心」が描かれるのです。
この作品のテーマとしてひとつ、リュウという一人の青年の「鬱屈からの解放」というものがあります。
綺麗なもの、汚いもの、嫌なもの、心地よいもの…
リュウ一人の視点から、人の感じるあらゆる感覚が余すところなく描き出されています。
ひとりの人間の精神世界の中に、あらゆる要素をひとつ残らず徹底的に描き出している執念、そしてラストでそれが解放につながる爽快感が、本書が名作である最大の理由なのではないでしょうか。
それでは、今日はこのへんで。