どうも、いとのです。
本日は、かの有名な童謡詩人、金子みすゞさんのお話を。
金子みすゞさんとはどんな人?
本名は金子テル。
二十歳のときに、小さな本屋で店番をつとめながら、詩を書きはじめた。
みすゞが初めて書いて、初めて投稿した童謡「お魚」と「打出の小づち」は、雑誌「童話」に掲載された。
当時、選者であった有名詩人 西條八十は、彼女の詩を、「この感じはイギリスの詩人、クリスティナ・ロゼッテイと同じだ」と絶賛している。
「若い童謡詩人の中の巨星」と期待されましたが、みすゞは昭和5年、26歳の若さでこの世を去りました。
しかし、小さいもの、力のないもの、無名なもの、無用なもの、地球上のすべてのものを、やさしく、いつくしむような祈りの詩は、今でも、多くの人の心をとらえています。
わたしと小鳥とすずと
金子みすゞさんの詩でもっとも有名なのは、やっぱり、この作品ですよね。
…すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。(引用)
小さくて、他愛ないもの、生きとし生けるものすべてを肯定し包み込む、なんとも彼女らしい、とても優しい作品です。
ですが私は、以前、この「みんな違ってみんないい」のフレーズに、なんとなく淡い反感のようなものを抱いていたことがありました。
それはたぶん、私がいわゆる「ゆとり世代」であること、ゆとり教育真っ只中で育ってきたことと関係しているのかもしれません…
子どものときは、親に先生に「お友だち一人ひとりにいいところがあって、だからみんな、同じように素晴らしいんだよ。みんなが、同じようにすごいんだよ」。
そんなふうに教えられます。
それを信じて育って、大人に近づくにつれて徐々に、必ずしもそうではないことに気がついてしまう。
何か至らないことがあれば、年上の人には、「このゆとり世代が」「だからゆとりは」と、笑われる。馬鹿にされる。さげすまれる。
そうですね。ごめんなさいね。
でも私だって、私たちだって、好きでゆとり教育を選んだわけじゃないんだよ…。
そうやって育てたのは、そういうふうに教えたのは、あなたたち大人でしょう。それちゃんとわかってる?
そんな鬱屈とした感情が、いつもどこかにありました。
正直今でも、何にも比較せず、すべてを一様に認めるのは、ちょっと違うのでは…と、思っています。
何より、対象を比較して、選別する、その力が無くなったら、人間おしまいだと思う。
やっぱり、比較は、必要だよ。
だって人生は、選択の連続なんだから。
たとえば誰かを傷つけるような比較は、それはもはや比較ではなくて差別だから、全然話が違う。
でも、やはり、よりよいものを見極めて選び取ることの大切さも、あると思うのです。
とにかくそうやって突っ張って、どんな他愛ない事物でも何でも比べて、比べて、そうして初めて、この「みんな違ってみんないい」の真髄が、ちょっとだけ分かってきたような気がしています。
私が選ばない道も、知らない誰かにとっては最良で、私の捨てた世界も、知らない誰かによっては最良で…、そういうこと。
自分の知らない世界を認める。
その精神があれば、私たちはもっと気楽に、自由に生きられるのかもしれませんね。
花のたましい
最後に、金子みすゞ作品のうちで、私が一番好きな詩をご紹介しましょう。
「花のたましい」という作品です。
花のたましい
ちったお花のたましいは、
みほとけさまの花ぞのに、
ひとつのこらずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまがよぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
ちょうちょにあまいみつをやり、
人にゃにおいをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの
ごはんになってくれるから。 (引用)
この詩を初めて読んだとき、私は、宮沢賢治の「おきなぐさ」というお話を思い出しました。
「おきなぐさ」というのは、うずのしゅげ、小さくやさしい、若い花のこと。
このお話では、「飛散した種子は、天にのぼって変光星となった」と、つまり、花の小さな命、幼い生命の旅立ちが描かれています。
花の死! 花のたましい!
こういう視点が、ほんとうにびっくりするくらい澄んでいて、うつくしくて、心に響く。
「優しい」とか「癒される」とか、そういう言葉では事足りない。
やっぱり、童謡とは、童話とは、祈りという言葉がいちばんぴったりきますね。
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それでは、今日はこのへんで。
またお会いできますように。