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津田雅美「彼氏彼女の事情」ネタバレ感想と考察 有馬と雪野の関係性を考える

津田雅美先生の代表作「彼氏彼女の事情」は野秀明監督によりアニメ化もされており、少女漫画の範疇を超えた表現や展開など当時はかなりの話題になりました。

個人的に大好きな作品なのですが、どっぷりハマりすぎて生活が疎かになりかねないため年に数回しか読めないというジレンマ。

 


今回はそんな「彼氏彼女の事情」の魅力について、メインカップル有馬と雪野の関係性に焦点を当てながら語りたいと思います。

 

 

 

 

 

有馬と雪野の関係性

当作品を語る上で欠かせないのは当然ながら、メインカップルである有馬と雪野の関係性です。

もっとも、「彼氏彼女の事情」作中には彼らの友人、また親世代や子世代(!)までを含む総勢何十組というカップルが成立しているため、読者によって注目するカップルや着目するエピソードは全く異なってくることでしょう。あるいはその点こそが、この作品をより奥深いものにしている最たるポイントなのかもしれません。

そんな作品なので、今さらメインカップルについて語るのもどうだろうかとは思いましたが、やはり突き詰めていくと個人的には有馬雪野の関係性がこの作品の真髄を表しているのではないかと思うのです。

 

まず最初に、個人的にここがすごいと感じるポイントは、作者がメインヒーローである有馬の性格・特性を、少女漫画によくありがちな「ヒロインを理解し支えるカッコいい男性」というステレオタイプからかなり外れたところに設定していることです。

そしてさらにすごいのは、物語の終盤(有馬くんの精神の闇が描かれ始めるあたり)まで、そのことをほとんどの読者にはっきり悟られないように演出し続けている点です。

 

というのもあくまで表面上は、有馬くんは非の打ちどころのない優等生(を演じている)雪野を支えているし、愛情も抱いている。けれどそれは、雪野を正しく理解したから、というわけではなく「自分と同じである」と思い込んだためです。

でもそれはほんの一時的なことであり、本質を突き詰めていけば、有馬と雪野はまるで違う。健康的な家庭で健やかに育ってきた雪野は、心の奥底ではしっかりと自己を肯定しているし、欠損家庭で育ち壮絶な虐待の末に実母に殺されかけた有馬のほうは、そもそもが「自己を肯定する」という経験すらしたことがない。


有馬も雪野も「自分自身を偽っている」というところは同じで、でもその本質は全く違う。だからこそ雪野は終盤まで有馬の孤独と絶望に気づけなかったし、有馬のほうは雪野をいかに上手く欺き通すかというところばかりを考えていて、「自分が彼女に正しく愛される可能性」があることすら考えようともしなかった。

 

「私は彼の送った小さなSOSを見逃した」

文化祭後、雪野のモノローグ。「私は彼の送った小さなSOSを見逃した」。

SOSとありますが、有馬は一言も「助けて」なんて言っていない。

「そんなに忙しくして、成績下がっても知らないから」。この言葉に対し、雪野はこう返します。「あ、私一番狙うのもうやめる」。しばらく勉強から離れて、主席の座は有馬に譲る。そう言って、そのまま有馬には目もくれずに前だけを見つめて歩いていく雪野。

タラればを語っても仕方ありませんが、出会ったばかりの雪野であればこの有馬のSOSを見逃すはずがなかったと思うのです。なぜなら本質こそ違うとはいえ、雪野もまた有馬と同じように自己を偽っていたから。本質を知られることを恐れて他人を遠ざけて、同級生にも先生にもただ「いい顔」していれば幸せになれると疑ったことすらなかったから。


要は有馬と同じ視点を持っていたころの彼女であれば、彼の不安定さにも一瞬で気づけたはずなんですよね。まだ初期の、浅葉が登場したばかりの頃の「よしよし 有馬が一番大好きよ」じゃないけど、あくまで分かりにくい有馬の心情吐露とか表情の機微とか、そういったものにいち早く反応できていた。(こういう書き方だと有馬くんが面倒な奴みたいになってますが、実際そうなので仕方ない)


物語中盤あたり(修学旅行編くらい)にて、二人は完全に背を合わせて立っている状態になってしまった。かろうじて同じ場所にはいるけれど、見ている方向は真逆で、進んでいく方も絶対に交わることはない。

そして、それをはっきり悟っている有馬と、全く気付いてもいない雪野。

現実的な話になると、普通のカップルならこのへんで「破局」を迎えるものなのではないかと思いますが、恐ろしいことに有馬くんはこのへんで本格的に「自己を殺し」始める。今まではなんとなく小出しにしてきたような暗黒面みたいなものが徐々に膨れ上がってきたからこそ、「自己を偽る」能力が皮肉にも膨れ上がってきてしまい、そのまま「影の自分」が本質へとすり替わってしまう。


雪野の一番近くで「最高の恋人の顔」をし続ける、というのが当時の有馬の情熱の全てであり、多分、生きるよすがでもあったのでしょう。とはいえ、あの雪野がそのまま綺麗に騙され続けてくれるはずもなく…

 

「こんな晴れた日に頭撃ったら気持ちいいだろう」

完全に闇に呑まれてしまいつつある有馬ですが、そもそも問題を突き詰めていけば事は彼一人の問題ではありません。有馬一族が代々抱えることになる闇や痛みは想像を絶するもので、せめてそこに雪野を巻き込まずに済めば…というのが当時の有馬に出来うる最大の愛情表現だったのでしょう。

 

何巻だったか、有馬のモノローグに、「こんな晴れた日に頭撃ったら気持ちいいだろう」というのがありましたが、個人的にはこの台詞が有馬家に漂う闇の雰囲気をもっとも端的に表現しているように思います。(ちなみに、おそらくこのフレーズ自体も何かの引用だと思われますが、引用元はよく分からず)

 

有馬の一族は闇が濃すぎて深すぎて、もはや「捨て鉢に」生きている人が多いんですよね。
例えば有馬の実父である怜司はつらすぎる現実を「ゲーム」として捉えることで過去を昇華しようとしていました。そうでなければまともに生きられない。「まとも」なふりをしつつも、ふとよく晴れた窓の外を見て「こんな日に死ねたら」と思うくらいには病んでいるし、感覚が痺れて完全に麻痺している。

雪野が普通の女子高生であれば当然こんな闇は抱えきれないはずですが(そもそも気づかないままというパターンもありうるが)、そこはこの名作を背負って立つ名ヒロインですからね。ただでは起きないし、たとえ己の身を削っても見捨てることはしない。

 

雪野がヒーロー、有馬がヒロイン

有馬が左手を切ったとき(切ったというか貫通してたけど)のヒロイン雪野の行動と言動、そしてそれに対する有馬の言葉と表情に、この作品の軸にずっとあった「本当の自分」を受け入れられるか否か、それに伴う喜び、救済、そういうものが全て凝縮されていたように思います。

 

普通の女の子であれば、彼氏が腕を切ってあれだけ流血していたらもっと驚くなり叫ぶなりするんだろうけど、雪野は違う。
超弩級のビンタを繰り出した上に自分自身も手を切って、そしてあの台詞「同じ傷作ったら私のこと信じる?」。(しかし片手の甲軽く当てただけで窓ガラス割るって…雪野 ちょっと怪力すぎでは、と思っていたらあとがきで作者も言及されてましたね)


個人的には、カレカノのヒーローポジションは間違いなく有馬ではなく雪野であると思っていますが、それが作中にてもっとも明確になったのがあのシーンだったと思います。

あの行動はまさしくあの時の雪野だったから出来たことであり、もしも他の、例えばただ表面上の有馬を好きなだけの、仮面に騙されている女の子であればなし得なかったことでしょう。あるいは極限まで有馬を理解していた浅葉にしても、力ずくで有馬の暴走を止めたり否定したりすることはできたとしても、救うことはできなかった。(そのことは作中で浅葉自身もはっきり言及していますね)

 

そしてそれに加え、雪野の、有馬に対する問いかけーーあなたは虐待されたことで傷ついているわけではない。本当はずっと人から愛されたかったんじゃないのか。

ここを見抜けるのはもう、さすがとしか言いようがない。これは個人的な願望に過ぎないけれど、これを見抜けたのはおそらく「過去に有馬に救われた」経験のある雪野だからこそ、なのではないかと思う。有馬に出会う前、ただ他人に賞賛されることだけを無上の喜びと考えていた彼女ならば、決してできないことだったのではないかと思うのです。

 

少女漫画では基本的にヒロインたる女性がヒーローポジの男性に救われる、それにより変わっていく…というような描き方が多いように思いますが、「彼氏彼女の事情」全21巻を通して有馬を「救った」のは間違いなく雪野のほうだと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

〇一馬・つばさ・浅葉について

itono-tono.hatenablog.com

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それでは今日はこのへんで。