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【鬱映画】『リリイ・シュシュのすべて』ネタバレ感想 津田詩織(蒼井優)はなぜ死を選んだのだろうか


映画『リリイ・シュシュのすべて』は、内容や展開からして賛否両論あるかと思いますが、個人的には大好きな一作です。

今回は本作について、原作との違いや蒼井優さん演じる詩織というキャラクターに焦点を当てて語りたいと思います。

 

 

 

 

 

リリイ・シュシュのすべて』について

リリイ・シュシュのすべて』(dž[1] All About Lily Chou-Chou)は、2001年に公開された岩井俊二監督日本映画、またその原作および岩井俊二によるインターネット掲示板を用いた誰でも書き込みができる実験的なインターネット小説2004年角川文庫から単行本が刊行されている。

まず、インターネット小説が公開され、後に原作本と映画が制作された。現実と架空をリンクさせた構成と、現代の少年問題を描いた内容が大きな話題を呼んだ。

岩井によると、「遺作を選べたら、これにしたい」作品。

引用元:リリイ・シュシュのすべて - Wikipedia

 

原作と映画の違いは?

上記の通り、この映画はもともとはインターネット上で小説として公開されていたものを映像化したものであり、当然ながら細かく比較していくと、小さな違いや表現のニュアンスの差異などは無限に出てきます。

 

が、中でも一番の大きな違いは、映画版では蒼井優さん演じる津田詩織が死を選ぶという展開ではないかと個人的には思っています。
ちなみに原作小説における元々の展開は、久野陽子(映画では伊藤歩が演じている)という別の少女が死を選ぶというもの。


映画製作の段階で、二人の少女を演じている蒼井優さんと伊藤歩さんの様子を見た監督自身が「死を選ぶのは久野ではなく津田のほうだろう」と判断したため、急遽この展開になったのだということです。

 

津田詩織はなぜ死を選んだのか

津田はなぜ死を選んだのでしょうか。映画の展開をみていくと、彼女が死を選ぶ展開はあまりに唐突に思えて、初めて観たときはかなりの衝撃を受けたことを覚えています。

カイトに乗りたい。そう言って、その言葉のまま「飛んで」、そして死んでいった彼女は何を思っていたのか。

私は個人的に、津田の登場シーンに流れるリリーの歌『飛べない翼』がものすごく好きで、そして特に歌詞の「機嫌直して生きよう」というワンフレーズが気に入っていたので、てっきり津田もそうやって何とか現実に折り合いをつけて生きていくんだろうと思っていました。

だからこそ彼女の選択に勝手に「裏切られた」ような気分にさえなったし、一方で、女であることを捨ててまで「生きること」を選んだ久野が輝いてみえたのかもしれません。


なぜ、死を選んだのだろうか。死ななくても良かったじゃないか。…などと言えるのはもちろん部外者ゆえの特権的なアレで、当人には当人の事情があって絶望があって…というのもちゃんと分かっている。しかもこれはリアルではなくあくまで創作世界の出来事なので、そこまで熱く入り込んで語るのもどうなのだろうという意識だってちゃんとある。

 

けれどやっぱり「唐突に」生きることをやめる人の存在感というのはたとえ創作の世界であれ強烈なもので、特に津田の場合はそれを演じているのが若かりし蒼井優さん(当時15歳)だというのもあり、スクリーン超しに伝わってくる痛いくらいの臨場感、リアリティみたいなものがとにかく半端じゃないのです。

 

一方で「生きること」を選んだ久野について考えてみると、彼女は津田と対比するかのように、とにかく「強さ」を強調して描かれているように思います。

襲われながらも自分を守るより先に、まずはカメラを壊そうとしたあの姿勢。髪を刈って、女であることのアイデンティティを捨てて、堂々と登校したあの朝のカッコよさ。

 

だからと言って津田が「弱かった」のだとは私には思えません。彼女には彼女なりの、確固たる論理や哲学みたいなものがあり、それは蓮見との会話の端々にもはっきりとあらわれている。

 

ただ、蓮見が見ていたのは津田ではなく久野で、彼はきっと久野の”カッコ良さ”に惚れていた。それはおそらく津田にも伝わっていたと思う。

岩井俊二監督が判断した通り、久野には「どんなことがあっても死なない」強さがあり、確固たる自我がある。それは作中にて、あの合唱コンクールの一件にも如実にあらわれていますね。たとえ自分が演奏を放棄したように見えようとも、観衆にどう思われようとも、かまわない。

 

誰にも理解されなくても良い。自分が自分であれば、それだけでいい。これこそ究極の強さと言えるでしょう。

 

 

 

しかしそう考えたとき、津田の自死は絶望ゆえのものだったわけではないのかもしれないなとふと思いました。

カイトに乗りたい、という願望は他の誰でもない、津田自身のもので、その願望をその勢いのまま実現させてしまうことは、あの瞬間の彼女にとってはまぎれもなく「確固たる自我」を守ることだったのかもしれない。

自分が自分であることを優先するという、長いこと抑圧されてきてできなかったことを、津田はあのとき久々に「実現」できたのだと言えるのではないでしょうか。

結果だけをみれば人はきっとその動機を「絶望」であると判断するでしょう。でも本当の動機は「希望」だった。そのことを、誰かに理解されたいとは思わない。

もしかしたら津田は、あるいはあのとき生まれて初めて、自我を守ることで「幸福」を得られたのかもしれません。

 

もっともこれは完全なる個人の希望的観測であり、実際のところは分かりません。自死を肯定したいわけでもない。

ただ『リリイシュシュのすべて』のあのエンドロールにて、津田が見せたあの何かから解放されたような表情からしても、私には彼女が絶望に吞まれてあの最期を選んだのだとは思えないのです。

 

津田も久野も、強かった。あれだけ色々鬱屈した世界で、あれだけ「強く」生きていた。その選択の結果が生にしても死にしても、彼女たちは正しく強さを持って生きていた。

 

展開だけをみて「胸糞」「鬱になる」「気持ち悪い」と判断する人も多いような気がするけれど、私はできればもっと彼女たちの強さにも目を向けて欲しいのになあと思うのです。
もちろん人によって解釈はさまざまで、多角的な解釈ができるのも名作たる所以なのかもしれません。ぜひまた観たい。ズーンと沈みこみたい気分のときに。

 

○久野について

annemonne.com

 

 

 

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〇星野について

itono-tono.hatenablog.com

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