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【エレファントカシマシ】YouTubeの35周年特別チャンネルを見て、ドキュメンタリー「扉の向こう」を思い出す。

エレファントカシマシYouTube『35周年特別チャンネル』というのを、この頃は繰り返し繰り返し眺めている。

当該チャンネルは文字通りエレファントカシマシの35周年という記念すべき節目を祝って急遽作られたものらしく、そのためアップされた動画も現在はまだまだ数少ない。

内容もそれほど大仰なものではなく、35周年ライブのステージ裏やメンバーの楽屋、ステージに向かう様子など、いわゆる舞台裏の様子が垣間見られるようなもので、要はこれもファンサービスの一環と捉えて良いのかもしれない。

 

 

ドキュメンタリー『扉の向こう』をひそかに思い出した

ファンだからこそ楽しめるであろう、ステージでは見せない他愛ない風景やメンバーどうしの絡み、ちょっと肩の力の抜けた笑顔。

真顔で真剣にふざけ続ける石くんにくすくす笑う宮本氏の姿や、ごく自然に肩を組んでいるトミさんと高緑さん。四人で並んでカメラに向かい「エレファントカシマシです!」と自己紹介する表情のやわらかさ。


眺めていると幸せな気分になる反面、妙なデジャヴを感じた。

例えるなら、初めて『扉の向こう』(※アルバム『扉』制作時のエレファントカシマシ密着ドキュメンタリー)を見たときの感覚に近い。宮本浩次だって決して生まれついてのロックの神様などではなく、どこにでもいるただの人なのだと初めてしみじみ実感したときの感じに非常に似ている。

 

ドキュメンタリー『扉の向こう』にて描かれているのは、ロックに生きる熱い男たちの姿だけではない。

音楽とともに生きていくために骨身を削る姿、年齢とともに衰えていく身体機能や年々変化していく情熱、それらを何とか自分のものにしてより良く先を生きようと日々苦悩している37歳の等身大の姿、それらがほぼ余計な演出なく、本当にありのままの形で映し出されている。


『扉の向こう』を見るまで、私はずっと宮本浩次のことを勝手に神格化していたところがあったように思う。

ものすごいロックの魂を身のうちに抱いて、
そのエネルギーで周囲を自然と巻き込んで、しまいには不特定多数の人を取り込んでさらに輝きを増していく、そんな化け物みたいな才能の塊なんだろうと。

もちろんそれも間違いではない。でも、そうではない面があること、バンドマンである以前に、彼もまた自分と変わらない、日々変わり続けていく現実に翻弄される一人の人間であることをきちんと理解しておかないといけないと思う。

 

あんな強烈な才能が、自分と同じように悩んだり苦しんだりもする脆い肉体に宿っていると考えると、ちょっと恐ろしくもなる。
あれだけの才能が万一にも失われるようなことがあってはならない、
だから生身の身体などじゃなくもっと強靭な、決して崩れることのない、ゆらぐことのない何かに支えられてしっかりと守られていて欲しいとひそかに願ったことさえある。


そんなふうに思うことがなくなったのは、実は最近のことだ。
月並みな表現だけれどいつかは散ってしまう桜が美しいように、永遠じゃないからこその儚さと尊さがある。エレカシの話だけじゃなく、私たち一人一人も皆同じだ。宮本浩次自身も、神格化されて、盲目的に崇められることなど決して望んではいないだろう。

桜の花、舞い上がる道をおまえと歩いていく
輝くときは今 そして胸を張って生きていこう(『桜の花、舞い上がる道を』)

 

ちょっと時間ができて心細くなると、今日も35周年特別チャンネルを開く。

ステージ案内と評してアリーナ内をうろつきつつ、中学生みたいにふざけ合うミヤジと石くんを見ていると幸せを感じる。こんな光景だって、どんな形か分からないがいつかは当たり前に終わってしまう。そこから目を背けてはいけない。

エレファントカシマシのことに限った話ではない。素晴らしく見えるものや人、自分以外の何かを勝手に神格化して、偶像化してべったり憧れるような生き方は、そろそろやめないといけない。なぜならどんなものにもいつかは終わりが来るから。

頑張ろう。と思いながら『扉の向こう』の好きなシーンを何度も巻き戻して、それから再びYoutubeに戻ってしまう。

推し活という言葉はあまり好きになれないけれど、案外自分も知らず知らずのうちに自然にやっていることだったのかもしれないなぁとふと思う今日この頃です。

 

annemonne.com

 

 

それでは、今日はこのへんで。