疲れたときほど本を読みましょう

文学とエンタメが日々の癒し。 好きな作品の感想や日々のあれこれをマイペースに綴ります。

MENU

【映画】細谷守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』感想 「母親像・女性性」の美化?

これは本当に、めっちゃくちゃ好きな映画です!
絵も好き、音楽も好き、キャラクターの中の人の声も好き…

ただ、この作品について世の中で賛否両論の意見が飛び交っていることも知っています。

「母親像の美化」「あんな母親いねえよ」。


…そうでしょうか?
まあ何にしても創作上の、架空の人物なのですから、そういう意見にも一理あるのかもしれません。

しかし、それなら否定派は、ヒロイン花がどんな女性だったら満足できたんだろう?

 

 

おおかみこどもの雨と雪』感想

作中で、ヒロイン花はいつだって笑っている。
どこにでもいる平凡な女子大生という気ままな立ち位置から一転、幼い子供2人(しかも狼と人間のハーフ)を抱えるシングルマザーという立場になって、どんな苦難に遭い窮地に陥っても、そのちょっと気の抜けたようなやわらかい笑顔は、変わらない。

花の夫であり、子供たちの父親である狼男の彼も、きっと花という女性がかもし出すほんわかした柔軟な雰囲気、すなわち強い女性性みたいなものに惹かれたのではないでしょうか。

女性性。
この物語の最大のポイントは、実はここなんじゃないかと思っています。


これを書いている私自身は女性だけれど、私は世の中で「女性性」と呼ばれているものはきわめて不確かで、曖昧なものだと思っている。
何かの主張や、あるいは抗議の際に切り札のように使われることもあるけれど、ではその本質は、いったいどこにあるのか。「女性であること」「女性らしいこと」には実際、明確な定義はない。

たとえば、ひと昔ふた昔にくらべて「働く女性」が圧倒的に多い現在、世の中はいわゆる「強い女性」の存在を強く求めている。
「男だから」「女だから」というのはたいていの場所でもはや免罪符になんてならないし、性別を理由に何かを受け入れることも、はたまた何かから逃げることも、よほどの理由がないかぎりは許されない。
「女だから」と他人が言うことは「差別」であり、自分で言うことは「甘え」であると、即座にジャッジされてしまう。

もちろん例外もあるには違いないけれど、そういう「風潮」が、今や完全に一般的なものになりつつあると思うのです。


つまりは、「女性性」を大切にするというよりは、「排斥」する方向性がより強くなってきてしまっている。それが良いことなのか、まずいことなのかという問題は、ここでは置いておく。
良くも悪くも、そういう時代なのです。


そんな中、それでも『おおかみこどもの雨と雪』を見た人は口々に言います。

「花がどんな目にあってもいつも笑顔を絶やさないのが違和感」。
「花の笑顔が怖い。あんな強く居られる女はいない」。


「強い女性でありたい」。
これは、今や日常的にもどこかしこで聞くような、ありふれた言葉ですね。
たとえば、化粧品のCMなんかでも。
「強さとは、美しさである」。
そういう認識が、あらゆる場所にさりげなく点在している。

私たちはそれに触発されて、強くなりたい、強くありたいと、無意識下で願うようになります。なぜなら、そうすれば認めてもらえると思っているから。

けれど世の中が求める「強い女性」像をいざ目の当たりにしたとたん、恐怖を覚える人もいる。
「あんなに強くなければ、認めてはもらえないのか?」


正直に言えば、私もそのひとりです。
たとえば今自分が、花と全く同じ立場に置かれてしまったとしたら、あんなに強く微笑んで生き抜いていく自信なんてとてもじゃないけど無い。

先に逝った夫に対しては「なんで置いていったんだ」と恨むだろうし、幼い子供たちに対しては、彼らに罪はないと分かっていながらも「あなたたちが狼の血をひいていなければもっと楽だっただろうに」と嫉む気持ちを抱いてしまうだろうと思います。

私に限らず、大半の女性は、そうでしょう。
生きていくということはただでさえ大変なことで、そのうえ背負うものが人の二倍も三倍もあったなら、それはもう苦しくて仕方ないに決まっている。

でも、花はそうしないんですよね。
彼女は、何も恨まない。
いや、仮に心の奥の奥に恨む気持ちがわずかにあったとしても、作中では徹底してその部分が描かれていない。
ヒロイン花は、すべてを受け入れた上で慎ましやかに「笑って」いる。


人が恐怖心を抱く最大の理由は「無知」ゆえであるといいます。
私たちが「笑いを絶やさない」花を怖いと思うのは、その深く豊かな女性性を「知らない」からなんじゃないでしょうか。
自分たちが追い求めていたはずの「強い女性」像と、作中の花の姿がどこか微妙に違って、その認識のずれみたいなものに対して「怖い」という感想を抱いてしまうのではないでしょうか。


物語の後半の、ほとんどラストに近いところで、花は先立った夫の狼男と「再会」します。夢のなかで。

ここでも、彼女は一言も恨み言なんか言わない。
「ずっと見てくれていると知っていたよ」。
そう言って、今までと同じように微笑みます。

私は、このシーンがどうしようもなく好きなのです。
ストーリーの流れそのものが良い、というよりは、「女性性」のもつ柔軟性みたいなものが、このシーンに集約されているような気がして。

私は「強さ」と「女性性」は、決して相反するものなどではないと思います。
ただ、「強さ」とは鉄の鎧のような強固なものではないとならないと考えている人には、花という女性が「強さ」とともにやわらかな「女性性」を併せ持っていることが、どうしても納得できないんじゃないかと思うのです。


女性の「強さ」は、たぶん強固な武装とは違う。
たとえば同じ交通事故に遭ったとしても、大人と子供とでは、子供のほうが怪我が軽く済む場合があると聞きます。
それは身体がまだ未発達で、筋肉もやわらかいので、同じ衝撃を受けても、大人よりも軽く「受け流す」ことができるためなのだとか。

花の「強さ」は、この子供の身体の「強さ」と同類のものなんじゃないでしょうか。

こういう「強さ」が、私も欲しい。
「強さ」と「女性性」の共存に恐れをなすくらいなら、やはりそこを目指したい。そう思います。


作中で描かれているヒロインの「強さ」は、決して「女性性の美化」なんかではないと思う。
この作品がどこまでも鮮やかなのは、作中の描線や彩色が綺麗だからというだけではなくて、強くありたいと願う女性の追い求める究極の姿が、花というひとりの女性の形を取って綺麗に描き出されているからなのじゃないかと思うのです。



おわりに

…長々と好きなことを書いてしまいましたが、この映画も、ヒロイン花のことも、私は大好きです。
狼男さんもかっこいいしね。
しかしこの狼男さん、一応はメインの人物でありながら名前が作中でまったく出ないのもやはり、この映画で描きたいのはあくまで花の生き方、つまり「女性」の姿であるということの裏付けなんじゃないかなと思います。

観たことのない方も、ぜひ一度観てみてくださいね♪

あと、どうでもいいけど、狼として生きる道を選んだ弟の雪のことを、花はあとあと周りの人にどう説明したんでしょうね…?

ま、いっか、そこは。…映画だし。(笑)

 

itono-tono.hatenablog.com

itono-tono.hatenablog.com

 


それでは、今日はこのへんで。